日々の出来事を綴るブログ
by mori-hako
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2010年 02月 02日
いつもの事であるが、スタッフが描いた設計図を確認するとき、何も考えずに描いた図面だとわかると、ただただ腹が立つ。何に腹が立つのだろう。作図した本人だろうか?勿論コトバの矛先は書いた当事者にだが、本質は深いところに響いてほしいから沸々と怒りがこみ上げてくる。何もいきなり、頭ごなしにいうのではない。
何事も日々の行動や接しているモノやコトにどれほど関心をもって接しているかということが大事な場面で問われるのである。昨日今日やったところで結果などついて来る訳もない。日々の積み重ねとは恐ろしいものである。都合の良いときは関心を持ち、興味のないコトであれば傍観者になる。どのようなコトでも自分自身のことのように捉えなければ、ここぞというときに新しい発想や工夫など生れるわけはない。イヤイヤでは身につかないし面白みも分からない。下手なりにも自分で行動してみるしかないのではないか。
例えば写真という話題があれば、アホ程自分の納得するような写真が撮れるまで撮影してみるとか。そうすれば、プロとの違いや天気や太陽の動きなど撮影の本質が少なからず分かる。そうすれば、空間と光の関係も良く分かるだろうし、どのような時間が良いかなど、深く考察することで設計へもフィードバックできることは多いだろう。つまり、写真とは光を捕らえているのだから。
日常そのような、話題やモノゴトに1日1日全身全霊で取り組む姿勢を続けていれば、数ヶ月で驚くほど変化する。たとえ興味がなかったことでも、気がつくと造詣が深くなっていたり、モノゴトの段取りもうまくなる。そうなれば楽しいもので飛躍的に向上すると思っている。それが、人間自身の文化の形成につながるし、社会に通用する人となる、デザインの良し悪しはにのつぎである。しかし、変化する過程はとても苦しい。時間と知識の闘いである。その殻を破ったヤツにしかわからない。難しいとか、イヤだとか思ってケツを割るヤツはどこに行っても務まらない。これはどの仕事において同じだからである。仕事とは本来何気ない日々の積み重ねなのである。キツイと思うぐらいでないと成長はないし、その中でも楽しい環境にするか否かは自分自身にかかっているともいえる。
僕自身、人から良いといわれたものは出来るだけ貪欲に接するようにしている。絵画・音楽・映画・小説・お茶・植物などなど。出来るだけ時間をつくり経験するのである。そうでないと、楽しさや、その人の価値観もわからないし、共有などもってのほかである。
設計というモノをつくっていく過程において、こういったことは大切である。つまり、人と人とのコミュニケーションという中で建築は成り立っているからである。クライアントや施工者、職人さん、メーカーさんなどなど、小さな住宅でも膨大な人たちとのやり取りがある。それらを纏め上げていく基本となるのが設計だと思う。
図面がいい加減で分かりにくいということは、つくり手は俄然分からないので積算も当然高くつく。それは僕自身、現場監督時代に感じたことである。施工図を書くときにはいつも、その職種の人の気持ちになって書かなければということを学んだ。それは難しいことではなく基本的な、つくり方を考えることである。当然つくり方というからには材料本来の良し悪しなど建築の知識が問われるから、自ら学ぶのである。現場では通り芯1本100㎜でも間違えようものなら取り返しがつかない。責任が取れないから責任を持って真剣に取り組むのである。現場では、すみませんというコトバでは済まないから張り詰めた緊張感の中で1つ1つ仕事を覚えるのである。建築は紙切れではなく現場にてリアルに建ちあがるものだから。
よって、何となく描いた図面の甘さに腹が立つ。現場でなんとかなるだろう的な考え方は捨てた方が良い。なんとかなるのは、仮に間違った考え方で、施工不可だとしても自分なりに「こう納めたい」という指針ができていないと、なんとかならないのである。指針があれば施工段階において執拗に食い下がることで落しどころも見えてくるし、その過程のやりとりが技術となって身につき自信となるのである。言われたことだけをやっているようでは何事も身につかない。
僕は実施設計の書き方を教わったこともなければ師匠のような人もいない。あえて師匠というならば現場時代に出会った職人さんたちといえる。中でもよりよくするために考えて提案してつくる人たちである。現場ではいかに安く、設計通りにと傾きがちな中で、より使いやすく、より納まりが良いといった通常より手間が掛かるけれどより良い方向にシフトできる一流の人たちである。僕は常に現場の経験が基本となって、自問自答しながら図面を書いてきたつもりである。だから、これが完成形というものがない。いつも、いい図面を書きたいと思うので毎回満足もしていない。1枚1枚、この建築を伝えるため、最低限必要な情報をいかに書き込むかを考えている。そういう意味では毎回、進化しなければならないはずなのに精度がばらつく。担当者の性格的なことで片付けたくはない。下手なやつほど、上手くなろうと考えるからである。教えを請う姿勢では、何年たっても、どこにいっても自立はできない。やはり基本に戻り、自問自答しながら考え、1歩踏出すことが大切だと思う。
本当に心地よい寸法で考えているか使いづらくないか、自分の家のように捉えているか、クライアントのモノと割り切っていないか、作図に至っては線の太さ・レイアウト・ディテール・文字の書き込み・整合性など、誰がみても理解できる作図につとめているかなど。建築を作るチーム全体に理解できるものを考えれば自ずと整理できることも多いのではないだろうか。仮に検討もせず、これぐらいと思って書くようなことが一度でもあれば、それは悪い癖として普通となっていくだろう。はじめてのコトに取り掛かる時はとても重要である。ひとつづつ、拘りをもって検討していけば、良い感覚も必然的に養われる。このような拘りをもちながら地道に竣工まで積み重ねていくことで、クライアント・関係者はじめ多くの方と価値観を共有できると思う。その感動はコトバでは言い表せない。最前線で諦めず執拗に食い下がって一緒につくったやつにしかわからない。その裏にある日々の意識が甘いやつは食い下がれないし、いつかツケがまわる。だけに、何気ないルーティンをいかに意識をもって行動しているかにかかっている。こういった拘りが非合理的な仕事の進めかたに繋がるのだが、建築という楽しさに出会えたのだから、こなすということは絶対にしない。時間がかかっても建築を通してクライアントには誠心誠意で向き合いたいのである。
大事にあたる心構えとして「事、未だ成らず、小心翼々。事、まさに成らんとす、大胆不敵。事、既になる、油断大敵」という明治の先達:勝海舟が若者に喝破したコトバがあります。建築を考えてつくるときの時間はその後の建築寿命を考えるといっときのことである。だから同じチームでモノをつくっていくのであれば同じ心構えで価値観を共有しながら真剣に建築をつくっていきたい。
一緒につくるとは、そういう基本的なコトである。
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